山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

実は悲しい映画?

最初にこの「ぼくの伯父さん」http://cinema.intercritique.com/movie.cgi?mid=3288を観たのは大学生の時だったか?
民放テレビの深夜枠で観たんだが、「けったいな映画だなあ」が最初の印象だった。

妙にセンスが良いデザインに文明批評のようなものも感じられ、同時に「ローカルなパリ」が存在してて
(揚げパン売りの屋台とか、荷馬車とか。19世紀からあるようなカフェとか)
うすら素っとぼけたストーリーとか、「変わった映画だなあ」という印象が残った。
(確かに「面白かった!」んだけど)

「書き散らされた散文のような映画」という印象だったが、その後、劇場で観て、レーザーディスクで買って、
今回デジタルリマスター版(多分。今まで観たのとは画面のクリアーさが全く違っていた)
をBSで観てみてまた印象が変わった。

「なんともはや、計算し尽くされた映画だなあ」と感心した。
昔はこの映画を「コネタ数珠繋ぎ映画」と思っていたのだが、年をとって改めて見直すと、
なんともジャック・タチの「失われ行くものへの視線」が痛いほど悲しい映画だった。

勿論、例のコルビジェ風のモダン住宅のシーンがチャップリンの「モダン・タイムス」のパロディで
ある事は当然であり、義弟の職業がプラスチック工場の社長である事や、
結婚記念日に新車を買っちゃうなんてのも十分にマテリアル(物質至上)主義っつーか、
アレだけオートメイションに苦しめられながらも自動ドアの車庫に改造しちゃうエピソードとか。
その赤外線のドアセンサーに触れるのを極端に恐れる(「感電して死にます!」と叫ぶ)
メイドの存在とか。
50年代も終わりがけに、大波のように世界中を席巻した「インターナショナル様式」
(地域、国籍を問わず同じようなスタイルでデザインされた建築様式の事を本来は差す)
への「からかい」の様なものも感じられた。

その一方では「ローカルなパリ」がちゃんと存在してて、真っ黒に手が汚れた揚げパン売りの
おっさんが、今日も元気に子供たちに不潔なパンを売っていたり、
カフェには朝から飲んだくれた爺さん達、荷馬車は現役で働いているし。
でもその「町の守護神」ともいうべき伯父さん(タチ)がパリを去ればその「19世紀の面影」を
持ったパリも消え行く運命にあるというのが映画の最後に示される。
握り絞められた父子の手のひらにしかもう、「血の通い合う関係は残らないよ」と示される。