山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

初夏の家事三昧

天候が良くなって、謎の風邪が抜けてきたら_たまりまくってる家事を片付けなくてはなりません(;´∀`)

まずは、台所の換気扇フィルターの不織布カバーが汚くなってきてるので、交換します。

ついでに流しの中に熱湯をためてセスキソーダを投入し、換気扇のフィルター本体も漬け置き洗いします。

 

浸け置いてる間にガス台を磨いて、ガスコンロを設置してるステンレスの台も磨きます(冬の間ちょこちょこは拭いてたけど磨いてはなかったので)

そのあとは生協で毎年買ってる「ゴキブリキャップ」(ゴキ駆除剤)をあちこちに設置して周り。セスキで油汚れが浮いた換気扇フィルターを洗ったら、新しい換気扇フィルター用不織布カバーをかけて設置して台所は終了。

 

次は庭に出て、ノコギリ片手に去年の猛暑で枯れてしまったレモンの枝をギコギコと切り落とします(結構太くて苦労した)

去年は猛暑のせいでレモンの実が一つも実らずに苦労しました。

しかし、どれが枯れてる枝でどれが生きてる枝なのか冬の間はよくわからなかったので、今の季節まで持ち越しました。

今の季節はレモンの花が咲くので、「可憐な白い花が咲いてる枝は生きてる枝」と見分けがつきます。

 

時間をかけて少しずつ枝にノコギリを入れて、苦労しながら切り落として、気になる部分の草を抜いたら庭仕事は終了(オットが前もって草刈りしてくれてたので)

 

次はリビング。

そろそろ冬用のカーペットを片付けたいけど、片付ける前に洗いたい女心です。

とりあえずリビングのカーペット3枚を引き剥がして階段から下に蹴り落とします(雑な奥さま)

 

そのカーペットを南側ウッドデッキの手すりにかけて軽く水をかけ、バケツにお湯と少量の液体洗剤、セスキを混ぜたものを新しい庭箒(おろしたて)に浸してカーペット全体に塗りたくります。

カーペット全体に塗れたら庭のホースで水をかけて洗い流してゆきます。

 

最初、ベージュのカーペットにシミがついてて。

「これは高圧洗浄機とか買ってやったほうが良いのでは?」と思ってたんですけど。

「とりあえず、家で出来ることをやってみるか」とランドリーにも持ち込まないで(゚∀゚)

※なんせカーペット3枚、車に積み込んでランドリーまで行って、駐車場と店内をカーペット抱えて3往復するのが嫌だったのだ!

 

やってみたのですが。なんと庭ホースのシャワーで綺麗さっぱりシミも落ちて(セスキで汚れを浮かしてたのが良かったらしい)

強烈な日差しのおかげでカーペットも夕方にはほぼ乾きました。

インパクトドライバーと「新」がつく駅

と言うわけで。

あの日注文したインパクトドライバーが届きました↓

お陰で北側ウッドデッキの改修が劇的に捗っております。

そもそもプロでもないし、そこそこの能力でもっとお手軽価格なものを_と探した結果がこのHIKOKI製のインパクトドライバーだったんですけどね。

オットによると「必要十分」な能力があるそうです。

_良かった、マキタの5万円のインパクトドライバー買わずに済みました(;´∀`)

 

とりあえず、ウッドデッキの床板を全部外して大引き(床を支える太い横に渡した角材)や束石に乗ってる束材にキシラデコール(ドイツ製防腐剤)を塗り込めまして、ぼちぼちと作業しております。

そもそも屋根の断熱塗料を塗った時も、トータルで半年ぐらい時間がかかったのでw

これはもう気長に作業していくしかありません(プロに頼めば2週間くらいで出来るんだろうけど)

北側のウッドデッキは半露天のお風呂場と接続しているので、どうしても水による腐食が起きちゃうんですよね。

 

この家の竣工当時には杉板でウッドデッキを貼ってたのですが、これが十数年でぼろぼろになりまして。

今のウッドデッキに改装したのが2008年とか?ですから、今の素材は20年近くもったわけですよ。

今回の改修も20年もてば御の字なんであります。

 

さて、神戸から帰ってきた弐号機。

ワシに向かって、「ワイの神戸のおみやげ話聞きたい??」となんか変なポーズを取りながら言ってきます。

「おお、聞きたいな」と言いますと弐号機が語ってくれました↓

 

新幹線で新神戸に降りました。

降りた先はヤブでした(゚∀゚)←知ってるー!新神戸駅の裏って滝があるくらい山の中なんだよねw

 

「コレは間違えた」と思って確認したらやっぱり新神戸駅で間違いなかったです。

※母は以前、フォロワーさんが新神戸駅近くにお住まいで家に遊びに行ったことがありますので知ってます あのアタリはイノシシが走り回ってます

 

地下鉄で三宮まで行ったけどマチナカがお年寄りしかいません。

イベント会場

www.kih.co.jp

も見当たりません。

どうしよう_と思って阪急百貨店の角を曲がったらオタクがいーっぱいいました!

フォロワーさんたちにも巡り会えました!!😆

 

だったそうですwみんなで素敵なカフェに行ったり、イベントも楽しんで充実した日帰り旅だったようですね、

芍薬園に行く

弐号機は早朝から新幹線で出かけちゃうし。

外は眩しいばかりの初夏の日差し。

ワシはこれから仕事が忙しくなるので、「出かけるのなら今のうち!!」ってんで。

 

さくっと出かけてきました芍薬園に↓

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そもそもはこの場所は「牡丹園」でして。

秀吉の朝鮮出兵の時にやってきた大名の人が、不始末でクビになってこの地を去る時に屋敷に牡丹の木を残して行きまして。

その牡丹を移植して育ててた地元の人のおかげでこの場所は牡丹の名所になったとか_そんな由来のあるところでした。

牡丹だけではすぐに花が終わってしまうので、「なら芍薬も植えとくか」的な感じで一緒に植えたらこの地の名物になったという経緯らしいです。

 

赤土の山の中、アップダウンを利用して様々な品種の芍薬が咲いております↓

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園内をぐるぐると遊歩道を歩いておりますと、確かに芍薬の芳香がしております。

「芍薬ってこんな香りだっけ」と芍薬の香水の香りを思い出しながらウロウロしておりますと。

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なんと園内の崖のところにヤマボウシが満開に咲いております↓

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しかもこれが結構な巨木が何本もあって満開に咲いておりました。

こんなにヤマボウシを見るのを初めてだったかもしれません(大体、庭木とかでぽつんと咲いてる感じだったのでこんなに群れなして咲いてるは初めて見ました)

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最初、あまりにも沢山咲いているので、「ハナミズキ?」と思いましたが。

ハナミズキはもっと寒い時期に咲く花だし、近寄ってみたらヤマボウシだったんでびっくりですよ。

これは花が落ちて真ん中の実が熟した頃、収穫に来たいですね(駄目だよ)

 

園内はワシら夫婦のほかは2家族がいるだけで、ほぼ無人でしたw

初夏というにはジリジリと照りつける太陽に灼かれながら(゚∀゚)園内を歩いていると「見晴らしの丘」と書かれた標識がありまして。

 

山の頂上に登ってみたら、石造りの巨大獅子頭が鎮座しておりました↓

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※おじいさんは杖が手放せません

 

獅子頭の口の中にはお賽銭が置かれてましたw

日本人、隙あらばお賽銭を置いていくスタイル(゚∀゚)

 

そもそもこの獅子頭、どういう由来で置かれているのか?

周囲の石垣が古いものっぽいけど、一体何なのか?

一切説明が書かれてなくて、ただ、山の頂上から山奥の山が連なる風景を堪能したのでしたw

 

その後、準備はやったようです

なんか急に夏が来ちゃって。

久留米とか佐賀では30℃超える勢いですよ!

糸島は海に面しているので、海風のお陰でそこまでいきなり真夏レベルの高温にはなりませんが__やっぱり暑いですやね。

 

「ダメだ!我慢ができない!!」と、扇風機を洗いまくりまして(その後、弐号機が扇風機を洗ったあとの流し場を見て「ぎゃー」と悲鳴を上げてましたがw)

エアコンも試運転しました。

「よしよしコレでなんとか夏を迎え討てる」とワシの夏の準備はコレにて終わり(終わってない 冬用のカーペットをランドリーに持ってって洗わなきゃ)

 

さて、弐号機は5月は「イベント月間」でして。

毎週末、なんらかのイベントに参加するために家におりません。

東京に、博多に、関西に。

飛び回って遊んでおります(仕事だけの人生よりいいか)

 

弐号機が大学を卒業して就職する時に、ワシが彼女に言ったのは、

「仕事と家の往復だけの人生にしてはいけない 他にも自分の居場所を見つけなさい」だったんですが。

まー、見事に放し飼い人生を謳歌しておりますな。

一時期は自立して一人暮らししたいとか言ってたんですが。

まず、職場が我が家から近すぎるw

職場周辺に一人暮らし用の住まいがほぼゼロ(;´∀`)という環境なので、弐号機も流石に諦めたらしく。

「今の職場で働き続ける限り、家から通います」宣言をされました。

 

弐号機としては、都会に住んで、仕事の帰りに飲みに行ったりレイトショー見たりという暮らしに憧れていたようですが。

「実利を取る」となれば、実家に居るのが一番いいという結論に自分で達したようです。

 

母としては弐号機が入れば家の中が明るいし(もう犬も居ないし (ノД`)シクシク)話が合う話し相手も確保できて(゚∀゚)弐号機のご飯を作ったり洗濯したりってのは別に苦じゃないんですよ(というか、弐号機が夕飯いらないとか言い出すと、平気で夕飯をシリアルにしちゃう女なんでワシ)

 

んで、今朝は早朝から関西で行われるイベントのために新幹線で旅立った弐号機なのでした。

昨夜、「泊まるの?」と弐号機に聞いたら、

「最終で帰ってくるよ」と言うではないですか。

仕事から帰ってきて、ワシが買ってきたミスドのポンデエンゼルとか食べながらゴロゴロしてたので、

「関西ではフォロワーさんに会ったりするの?」と聞くと、

「会うよ」と弐号機。

「…あなたがお土産とか準備しているようには見えないんですけど」と言うと、

「してないよ?」と言い放つ弐号機。

 

 

GREEK CITY TIMESより転載

その後、ノーラン監督の「オデッセイア」の炎はギリシャ本国にまで飛び火してこんな記事を今朝読みましたよ↓

https://greekcitytimes.com/2026/05/15/nolans-odyssey-problem-diversity-without-greeks-is-not-diversity/?fbclid=IwY2xjawR0pTdleHRuA2FlbQIxMQBzcnRjBmFwcF9pZBAyMjIwMzkxNzg4MjAwODkyAAEeUZIMup9672XpoRrQLu8BAkTPwh0XssSGnBDRyVzFBzvzj73DryiTE3cUGGY_aem_yIzQWunb0b2aiacIZCcJyw

ハリウッドは長年にわたり、表現、包括性、文化的感受性、そして物語における多様性の道徳的必要性について観客に説いてきた。スタジオ、俳優、映画製作者は、真正性が重要であること、つまり、文化は単にコンテンツのために利用されるだけで、その文化に関係する人々が不可視化されるべきではないことを繰り返し主張してきた。

しかし、クリストファー・ノーラン監督による近日公開予定の『オデュッセイア』の映画化作品は、まさにその矛盾を体現しているように見える。

ノーラン監督のキャスティングをめぐる議論は、たちまち「意識高い系」対「反意識高い系」という使い古された二項対立に陥ってしまった。しかし、この枠組みでは、より知的で真剣な批判を見落としてしまう。問題は、ノーラン監督が人種に基づいて俳優を厳密にキャスティングしなければならないとか、ドキュメンタリーのような歴史的正確さでホメロスの古代ギリシャを再現しなければならないということではない。監督は常に古典作品を再解釈してきた。シェイクスピアは現代化され、ギリシャ悲劇は再解釈され、神話は語り継がれることで進化してきたのだ。

ノーラン監督には、誰を起用するかを決める絶対的な権利がある。

しかし、作品が現代の多様性政治の言葉遣いや表現を露骨に取り入れた場合、次のような単純な疑問を投げかけることは全く正当なものとなる。表現がそれほど重要なのであれば、ギリシャ文明の根幹をなす作品の一つに根ざした物語が、なぜギリシャ人を完全に排除しているように見えるのか?

著名なギリシャ系俳優は一人もいない。ギリシャ系アメリカ人の俳優も一人もいない。物語の起源となった文化への象徴的な言及すらもない。

その省略は単なる皮肉ではない。それは、ハリウッドの現代的な多様性の枠組みが、いかに選択的で、見せかけだけのものであるかを露呈している。

10年以上にわたり、アメリカのエンターテインメント文化は、文化の所有権が重要であるという考え方を積極的に推進してきた。観客は、物語はそれを生み出したコミュニティから切り離されるべきではないと教えられてきた。ファッション、音楽、宗教、言語、映画など、文化の盗用をめぐる非難をめぐって、大規模な論争が巻き起こった。

ハリウッドは、支配的な産業が少数派文化から要素を取り入れながら、その人々自身を排除してきた歴史的慣習を繰り返し非難してきた。

しかし、まさにここで起きているのはそういうことなのかもしれない。

古代ギリシャは単なる美的背景ではない。『オデュッセイア』は西洋文明を代表する文学作品の一つであり、ギリシャの文化的アイデンティティ、神話、そして知的歴史の礎石となっている。帰郷、忠誠、誘惑、アイデンティティ、そして不屈の精神といったテーマは、紛れもなくギリシャ的な世界観と文化的伝統から生まれたものである。

ハリウッドが本当に多様性の尊重が重要だと考えているのなら、ギリシャ系の人々の多様性の尊重も重要であるべきだ。

その代わりに、ギリシャ人は自らの歴史の中で存在感を失ってしまったように見える。

ノーラン監督の擁護者たちは、しばしば芸術的自由という言い訳に逃げ込む。彼らは、神話は誰にでも属するものであり、翻案作品は本質的に解釈を伴うものであり、映画は人類学ではないと主張する。これらはすべて真実だ。しかし、こうした主張は、現代アメリカの文化言説において、他の場所ではほとんど受け入れられない。

ハリウッドは、多様性を誇示しながら、日本人俳優を起用しない日本の叙事詩の翻案を受け入れるだろうか?アフリカの歴史的物語が、アフリカの血を引く俳優を一人も起用せずに映画化されるだろうか?先住民の神話に根ざした映画が、先住民の俳優を起用せずに制作され、スタジオ側が包括性を自画自賛するだろうか?

答えは明白だ。

基準は、関係する文化によって変化する。

ギリシャ人は、イタリア人、アルメニア人、スラブ人、その他の地中海沿岸やヨーロッパの民族グループと同様に、アメリカの人種政治においてしばしば厄介な位置づけに置かれている。彼らは「白人」であるため代表性の議論から除外される一方で、民族的、文化的に十分に独自性を持ち、神話、歴史、美学の題材として利用される存在でもある。

ハリウッドは、ギリシャ文化そのものの表現に対する義務感を全く感じることなく、ホメロスの持つ文化的威信だけを求めている。

アカデミー賞の受賞資格基準をめぐる憶測を考えると、その矛盾はさらに明白になる。

近年、映画芸術科学アカデミーは、作品賞の選考基準に多様性と包摂性に関する基準を導入した。現在では、作品は画面上だけでなく制作現場においても、人種、民族、性別に関する一定の基準を満たすことで、賞の対象となる。

擁護派は、これらの基準はこれまで十分に代表されてこなかったグループ全体に幅広い機会をもたらすと主張する。一方、批判派は、これらの基準は物語性よりも制度的な遵守や賞の獲得を目的とした、形式的あるいは戦略的に計算されたキャスティング選択を助長すると主張する。

ノーランのキャスティング決定が、そうしたインセンティブに少しでも影響されていたとしたら、その印象は非常に不快なものとなる。

なぜなら、そうなると映画は単に選択的な多様性を追求するだけでなく、ギリシャの文化遺産に深く関わる人々を排除しつつ、賞レースを狙うアイデンティティ政治の手段として、ギリシャの根幹をなす文化的なテキストを悪用する可能性もあるからだ。

その段階になると、非難はもはや単なる矛盾ではなくなる。それは文化の搾取へと発展するのだ。

ハリウッドは事実上、
「我々は古代ギリシャの物語を収益化し、一流ブランドとして売り出し、アカデミー賞を狙うほどには価値があると考えているが、ギリシャ人自身を意義ある形で物語に組み込むほどには価値を感じていない」と言っているようなものだ。

それは、業界が他の場面で常に用いている倫理的な言葉遣いとは相容れない。

同様に注目すべきは、マーケティングそのものである。

ノーラン監督のプロジェクトは、ホメロスの叙事詩の権威と遺産を想起させる『オデュッセイア』というタイトルで直接的に発表されている。しかし、映画監督が原作から大きく逸脱すればするほど――トーン、キャスティング、テーマ、イデオロギーなど、どのような点であれ――その再解釈を正直に示すことがより妥当になる。


「クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』」

「ホメロスの『オデュッセイア』にインスパイアされた作品」の間には、大きな違いがある。

後者は適応と創造的な多様性を認めている。前者は文化的・文学的な連続性を暗黙のうちに約束している。

繰り返しますが、ノーラン監督にはホーマーの原作に忠実であり続ける法的義務はありません。しかし、観客にも、原作のイメージと実際の映像表現の乖離を批判する権利はあります。


ハリウッドは、古典的な文化作品の権威と、それらを本来の文化的文脈から完全に切り離す自由という、相反する二つのことを同時に求めるようになっている。

そのバランス感覚は、業界自身が表現や盗用について語る言説と結びつくと、特に不安定になる。

ここでより重要な問題は、多様性そのものが良いか悪いかということではない。多様なキャスティングは、一貫性と誠実さをもって取り組めば、素晴らしい成功を収めることができる。観客は、演劇、オペラ、映画など、あらゆる分野で数え切れないほどの再解釈を受け入れてきた。

問題は、多様性が原則に基づいた一貫性ではなく、イデオロギー的なブランディングになってしまうときに生じる。

代表性が重要であるならば、それはギリシャ人を含め、普遍的に重要であるべきだ。

文化的な真正性が重要なのであれば、その起源となる文化は、都合の良い時にいつでも選択できるものであってはならない。

もし翻案が完全に無制限であるべきだとするならば、ハリウッドは他の文脈における芸術的選択を恣意的に道徳的に批判するのをやめるべきだ。

ノーラン監督の手法を批判する多くの人々を苛立たせているのは、単にキャスティングそのものだけではなく、現代アメリカにおける文化規範の非対称性である。ある文化は神聖で不可侵のものとして扱われる一方で、別の文化は、義務や責任を負わずに際限なく再解釈できるオープンソースの神話として扱われているのだ。

その矛盾が、皮肉を生み出す。

これにより、「多様性」は真摯な倫理原則というよりも、政治的動向、制度的インセンティブ、賞レースの計算に基づいて選択的に適用される、流行の業界通貨のように見えてしまう。

皮肉なことに、ノーラン監督の『オデッセイ』のような映画に対する反発は、必ずしも芸術の自由を否定する人々から来ているわけではない。多くの場合、それは観客がハリウッド自身の論理をハリウッド自身に当てはめていることから生じているのだ。

長年にわたり、業界はこう主張してきた。
「表現は重要だ」
「文化的な声は重要だ」
「真正性は重要だ」「
文化の盗用は重要だ」。

批評家たちは今、それらの原則がギリシャ人にも適用されるのかどうかを単純に問いかけている。

そして今のところ、ハリウッドの答えはノーのようだ。



「ハリガン氏の電話」

と、言うわけで。

Netflixにて「ハリガン氏の電話」を見ましたのよ↓

www.netflix.com

映像化されたのは2022年ですね。

 

先日、「チャックの数奇な人生」という新刊を買いまして(新刊の小説を買うとか半年ぶり?くらいでワシにとっては一大事です)

この本の前半に入ってる短編小説が「ハリガンさんの電話」なんですね。

 

これがさあ…

読んだら面白くて、久しぶりに読書の愉悦を感じましたね。

「どーなっちゃうのこれー」とドキドキしながらページを捲る喜びって、単純に良いものです(^o^)

読み終わるのがもったいないような気がしてきまして、

「どうしよう、チャックの数奇な人生もこんなにおもしろかったら、読み終わるのが残念だ!モッタイナイ!!ちびちび読んじゃおうかな」

と逡巡するくらいに、面白かったんですね(さすがキング作品)

 

ワシは概ね、キング作品の映像化は「読んでから見る」派でしてw

なんかその方が理解が深まるっつーか、映像の背景がよりはっきり見える気がして。

ワシの作法として「読んでから見る」という順番にしております。

勿論、読む前に見ちゃった作品もあるし、他の人に「読んでから見る」という順番をやりなよというつもりはありませぬ。

自分の中の作品の解像度を上げる為に「読んでから見る」という順番にしているという話です。

 

そしたらさあ(゚∀゚)

 

このNetflix版「ハリガン氏の電話」

すごく丁寧に映像化されてて、小説を読みながら脳裏に描いてた映像にかなり近かったのでビックリしました。

 

アメリカ東海岸の田舎町。

そこに世捨て人のように暮らす大富豪の老人。

その老人に気に入られて、老人のために本の朗読のバイトを頼まれる少年。

 

「お、お、なんか既視感あるぞこの設定 ゴールデン・ボーイだ!」

ja.wikipedia.org

ワシ、この「ゴールデン・ボーイ」という小説が好きで。

この小説「ゴールデン・ボーイ」はキングの「恐怖の四季」という短編集に収録されているのですが。

一緒に収録されてた「刑務所のリタ・ヘイワース」(映画「ショーシャンクの空に」原作)より「スタンド・バイ・ミー」(映画「スタンド・バイ・ミー」原作)より、この「ゴールデン・ボーイ」が一番面白くてぞーーーーっとしました。

 

この「ハリガン氏の電話」も、面白くてやがてぞーーーーとしましたよ。

あまりにも丁寧な映像化だったんで、エンドロールで確認したら「製作総指揮・スティーブン・キング」になってて思わず膝を打つのでした。

「トロイ」と「ユリシーズ」とやっぱり「オデッセイア」について

その後、Twitterにては映画「トロイ」を持ち上げる意見が多く見受けられました。

ja.wikipedia.org

ワシとしては…「トロイってそんないい映画でしたっけ?」(リアルタイムでは巨額な制作費をかけたちょっとイケてない映画扱いだった記憶)

そもそもワシは当時ブラピの事があまり好きじゃなくて(今は結構好きです)

「トロイ」も未見なんですが…

 

当のギリシア人に言わせるとこの映画「トロイ」も「全然ダメ」なんだそうでw

(そりゃあ確かにね、ブラピがアキレスを演じるのには反発があるだろうなと予想するワシ いかにもアングロサクソン的な見た目だし)

 

んで。試しにワシが推しておりますカーク・ダグラス主演の「ユリシーズ」

ja.wikipedia.org

は欧米においてどういう風に受け止められているんだろう?と調べてみたら…

 

結構、色んな国の方々からこの「ユリシーズ」は絶賛されてたんで、思わずワシは溜飲を下げるのでした(゚∀゚)

まー、確かにね。

出演陣はカーク・ダグラス始め、イタリア人が中心で、アンソニー・クィンも出てるし。

「顔の濃さが違う」ですよwオリーブオイルの風味がむんむんしてます。

ちゃんとアドリア海?でロケしているし、白い岩や陽光の輝きが違う気がします(眩しい)※そもそも神話の場所でロケするはずだったが地震で被災して出来なかったらしいが

 

そしてその後Twitterにて、イーロン・マスクによる、

「ノーラン監督のあのキャスティングは賞が欲しいがゆえの行動だ」という指摘がされ。

「ま、それはそうだろうね」と思うなどしました。

今回の「オデッセイア」は、そもそもが近年上梓されたフェミニズム翻訳(超訳!?)による「オデッセイ」を素にする映画化なんで_つまりはアカデミー会員に向けた「いい顔(僕はwokeしたいい子ですよ的な)」の行動なんでしょうね。

 

そしたらその後、イーロン・マスクによるこんなツイートが(;^ω^)↓

これはつまり、西欧文明社会の自殺と言えるのかも知れませんね(とまで思いました)

自分たちの文明の根源を台無しにするという事。

この重さを_ノーラン監督にもわかってほしいです(こなみかん)