山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

「私が・棄てた・女」読了・『田園に死す』

夜、寝る前に遠藤周作の「私が・棄てた・女」を読む。
読んだら目がさえてしまって、最後まで読み終えた。
なんか、脳が刺激されてしまって全然眠くならない。
コレは最近も映画化された(『愛する』=渡辺篤郎主演もコレが原作)が、この「原作の映画化問題」ということに日々心を砕き、心血注いでその解釈と表現の関係に脳味噌を酷使しているニンゲン(って誰?ワシか??ナンのためにソコまで考えているのだ、ワシは)にとっては、かなり魅力的なテキストであった事は間違いない。

浦山桐郎版『私が棄てた女』は、ミツが働きに行く施設は原作にあるハンセン氏病患者用隔離施設ではなく、都営の老人ホームになっているし(多分、映画化に際しタブーが多かったためであろう。近年映画化された『愛する』ではハンセン氏病患者用隔離施設にチャンとなっているらしい)、原作では割と「スッキリ棄てられる」経緯が映画版では執拗に何度も繰り返される(そこが素晴らしいのだが)
しかも、最後の棄て方は聖書を踏襲しているし。
最初の棄て方はフェデリコ・フェリーニの名作『道』での、ザンパノがジェルソミーナを棄てたのとまるで同じだし。

一見、通俗の衣を着ながら、その実根底にはキリスト教的な世界観が流れている。
ソコの所に「遠藤周作的なモノ」を強く感じるワケで。
コレ(浦山版『私が棄てた女』)は「原作付き映画」として観ても「世界最高峰」なのではナイか?と、見終わって数日経って、シミジミ感じる。

午前中に「主婦業」をヤッツケ(^^;て、午後は「レンタル・ビデオ鑑賞会」(「棚から一掴み劇場」は内容が濃すぎるので、毎日観ていると廃人になる恐れアリ←嘘だけど)
本日のお題は『田園に死す』(寺山修司監督・1974年)
う?む。『まぼろしの市街戦』?と思いつつ観ていたが、ある瞬間に「ギャッ!」と叫んで思わず立ち上がった(家でビデオ観ながらイキナリ立ち上がるような母親で、娘達よスマンスマン)
詩人のイマジネーションに打ちのめされた。

川を、川をね、お雛様がね、豪華七壇飾りセット緋毛氈付きがね、ドンブラコッコ??ドンブラコッコ??って流れてくるの。
で、ソコにJ.A.シーザーの曲が被さって、変な「昔の唱歌」みたいな児戯に等しい面妖な歌が流れてくるの。
ソコにヤラレタの。うひ?。

♪死んでください??お母さん???♪
もう、死んだね、ワシ。
心中シーンも美しかったね。満足満足。