山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

コチラの日記は覚え書きメモ・本家は下にあります↓

「てんたま親しらズ?」を読んだときに、どうやらこのヒト(笙野頼子本人)は出版社及びマスコミ全体を相手になにか喧嘩をやらかしたらしいと感じた(小説では過去形として登場)
うすうすそう感じていたところに「説教師カニバットと?」を読んで「あ。やっぱりナンカあった」と思ってたら、図書館で借りてきた随筆集「ドンキホーテの『論争』」にその一部始終が書かれていた。ビンゴ!!

つまり、事の起こりは新聞紙上「純文学の書評&評論」欄に無知蒙昧の(純文学なんて実生活の役に立たないからナシにしちまおう的)ファシズム記事が(担当の新聞記者によって)書かれていたこと。
ソレに抗議し、「論争」を仕掛け孤立無援で戦った(のか?相手は戦いの場にすら出てこなかったが)事が書かれた、その記録であった。

この孤立無援ブリがなんとも気の毒で、しかし爽やかなのだ。
文芸春秋誌上で語られた流行作家三人による「芥川賞撲滅作戦」の対談も信じられない。
(しかも、この「爆笑(内容が、本人達の無知蒙昧&感性の摩耗さ加減に無自覚であるが故)座談会」のメンバーの一人が@田次郎であったという・・・・)
おなじ文筆業でありながら、ある特定のジャンルに対してここまで言える(滅んでしまえ)この無神経さ。
「自分はバカで頭の中身は19世紀のママでカチンコチン君です」と首から看板を下げているようなモノだ(ソレは昨日の「林檎ちゃん妊娠ニウス」にコメントしたオグラも同類)

「自分の無理解ぶり、頭の悪さ加減を無神経に大声で宣伝できる蛮勇さよ」

ある種、この厚顔ぶりは森首相と並んで、「生きていく上での才能の一種」なのカモしれない。
「うんこ垂れながらあるいてもワシ平気だもんね」的生き方も時には必要なのカモ(←皮肉)

この本(「ドンキホーテ?」)に書かれている彼女の純文学に対する姿勢は着目に値する。
高校の現代国語の副読本にして貰いたい。
純文学は今、こんなトコロまで来てしまっているのだ!!
ワシは「本読み」であるが、実は純文学には疎い。
でも笙野頼子を知ってヨカッタ。

ホラーにしてSF、残酷でお笑い。
全ての文体は破壊された後に再構築され、日常を切り刻みながら虚構の世界を叩き割り自分の脳内へと至る。
しかし、そこには作家の真実が核にあり、ソレだけがリアル。
「新難解派」と呼ばれているらしいが、全然難解でも何でもない。
めっちゃ、判りやすい。
ワシは支持する。