山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

その「プロジェクトX」な話しを書き残しておこう

旧・洛北生協(現・京都生協)では当時、地元産の牛乳を購入していたが、ある時、その牛乳が乳脂肪分を抜いた無脂肪乳にヤシ油を添加したものにすり代えられていたという事が発覚。

生協がメーカー側に「普通の牛乳が飲みたい。加工乳じゃなくて」と苦情を言うと、「それじゃあもう生協には商品を提供できない」とその要求を突っぱねられる。
で、生協は地元の畜産農家に「新鮮な添加物の無い牛乳を提供してくれないか」と打診したがどこからも答えは「NO」
今もだが、当時も酪農農家は大手乳製品メーカとの間で生乳(牛から絞ったままの状態の乳)の買い取り契約を結んでいたので、「生協に生乳を提供する」という事は「メーカーに逆らう」と言うことを意味する。

地元の酪農農家はみんな尻込みして誰も生乳を提供してくれない。
生協の担当者は生乳の生産者を訪ね訪ねて西へ下り、結局は鳥取県は大山のふもと、大山乳業に行き着いたというワケ。

しかし、当時は日本海側と京都を結ぶ幹線道路は一本(しかも片側一車線)
冬場は一晩に80センチも積雪する環境の中、片道300キロの道のりをトラックで往復する日々が始まる。
夏場はトラックに帆布のシートを広げ、牛乳をくるんでその上に大量の氷を積み上げて輸送する。
なんとも今聞くと、「そんな物凄い時代が…」という感慨を持つが、確かに、「田中角栄以前の日本」ってそんな所だった(田舎の道は未舗装がアタリマエ)

そのアタリの詳しい時代的な話しは、探したらちゃんとあったあった↓
http://www.kyotocoop.net/moumou/page_08.html

まあ、そんな風で当時は日本各地でそんなドラマが生まれた時代も、あぁ??たねとぉ??♪
で、思い出した。
ワシが以前務めていた会社って、当時「日本で初めて作られたシステムキッチンを扱っていた代理店」だった。
するとやはり当時は、メーカーでもステンレスのプレス技術って「職人さんの腕に頼る部分」が大きくて、ちょっとした加減でステンレスの伸びが悪くて加圧した途端にステンレスが裂けるというか、割れる事が多かったらしい。

で、その時、工場では何をしていたのか?と言うと、
「とげ抜き地蔵のお札を貼ってプレスしてた」らしいよ?

「職人は自分の腕を信じた。そしてそこに神仏の加護があれと、祈る思いでプレス機にお札を貼った…プレスした…型は見事に抜けていた。神の加護はあった」by田口トモロヲ