山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

初号機誕生のいきさつ 4

ま。そんな風にして30数時間の激闘の末、母子ともに元気で生還いたしまして。
「ああよかった」と思う間もなく。
古い病院でしたので、母子は別々に隔離されてしまって、我が子をこの手に抱くこともできないという状況がですね。
辛かったですねえ。
泣いててもガラス越しに廊下から見ることしか出来ない。
これが辛くて辛くて。

それまでは「産んでしまった後は、少しゆっくり出来ていいかな?」と母子別室に関しては全然深く考えてなかったのですが。
実際に産んだばかりの我が子と引き離されるのがここまでツライとは(苦笑)

「いつになったら一緒に過ごせるんだろう」とオロオロしながら廊下をうろつくアヤシイ入院患者になってましたね。

しかもこの時、出産で入院してたのはワシだけでありまして(ーー;
看護婦さんと掃除のおばちゃんとしか話し相手が居ない。
夜になれば病院のクーラーが止まって滝のような汗が出るし(出産とともに体質が変わってしまって、それまで汗なんか殆どかかなかったのに、毛穴が開いたのか?大量の汗が出るように)
暑くて窓を開ければ蚊が集まってくるし(汗臭いから??)
病室にはシャワーもついてなかったので、病室の洗面台の水道で顔を洗ったりしながら眠れない夜を過ごしておりました。

んで。
なかなか母乳が出なかったこともあり。
ワシはなんと産後鬱まっしぐら!!のコースへ突き進むのですが、それはまた別の話。
いずれこの話はすることがあるのかもないのかも(´ω`)

産後鬱になって、「ダメ母なワシ…もう_(:3」∠)_だめぽ」「おっぱいが出ているのに飲んでくれないなんで?ワシがダメだから??」
と悩み続けた数ヶ月。
夜も眠れず神経が高ぶっててえらい状態だったのですが。
それでもやっぱり我が子は可愛くて。大事でしたねえ。

自分の都合で不妊治療で授かった子。とはいえ、だからといってその子を自分の道具のように思うこともなく。
自然に妊娠したのとなんら変わらない気持ちで(自然に妊娠したことはこの時はなかったわけですが)このツルツルピカピカの健康な赤ん坊が我が家に来てくれた事がただ嬉しくて。
「神様はいいものをくださったなあ 間に合ったなあ」と感謝しておりました。

ところがやはり、好事魔多しともうしますか…
姑のガンが再発しまして。
「次に再発したら数ヶ月と覚悟しておいてください」と主治医に言われた、その通りになってしまいました。

当時、初号機は生後7ヶ月。
姑はいつも初号機を抱きながら、
「この子が小学校に入る頃までは生きていたい」と申しておりましたが、その願いは聞き届けられず。

北九州の病院で、雪が降る夜に亡くなりました。
がん再発後、入院する前に姑はワシに向かって、
「赤ちゃんを産んでくれてありがとう。どれほど感謝してもしきれない。本当に本当にありがとう」
と言いました。
その時はなんと返事していいのやら困ってしまって。
「いやいや、私も産みたかっただけですよ」みたいな変な返事をしてしまった気がしますが。

やっとはいはいを始めた初号機を見届けて。
姑は亡くなりました。
最初のガンが見つかってから17ヶ月後のことでした。

この喪失感と疲労感からワシはすっかり抜け殻になってしまって(今思えばあれは燃え尽き症候群だったような気がする)
仏壇の前で呆然として過ごしていたのですが。

それでも目の前の赤ん坊の初号機はぐんぐんと音を立てて大きく育って行っている。
毎日、この眩しい命の輝きを見ていると。
「なるほど。ワシもぼーっとしてないでなんか新しいことをやらなきゃね」と思わされました。

それで赤ん坊連れての福岡市〜北九州市の往復がJRではものすごく大変だったので、
「これからのことも考えて、車の免許でもとりますか」
と夫と二人、赤ん坊を抱えて最寄りの自動車学校に通い始めました。
コレがさらに次の運命につながっていくわけです。