山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

その感覚の検証

何故か朝夕のプロレスが日課に成りつつある、ボイスとクル。

種を越えた友情は、しっかりと実を結んでいるのだ(笑)
夕暮れ時になると、二匹は玄関先で全く同じポーズで、並んで、
石貼りの上で涼んでいる。

昨日の続き。「ライフイズビューティフル」
「何故、舞台劇のような印象を持ったのか?」の感覚の検証。

色んな小ネタのギャグが積み重ねられていて、それは伏線となり、
主人公グイドが憧れのキミ「お姫様」のハートを射止めるための
「仕掛け」となっている。
しかし、その仕掛けも「無理矢理の積み重ね」にすぎず、
全てはロベルト・ベニーニの「手のひらの上での出来事」にしか過ぎない。
本人にとって、全てが都合良く進行してゆく、
「作り話のタメの作り話」にしかなってイナイので、
ストーリィ性のダイナミズムが全くと言っていいほど欠落してしまっている。
これがまず、第一の理由。

普通だったら気恥ずかしくて、とても出来ないことを「イケシャーシャー」と
確信犯的に、「なんか、こんなバカっぽいのって映画でしかできないよね??」
という文脈でやるのならまだしも、「多分、大マジ」でやってのけるあたりに
「根性のイヤシサ」を感じてしまうのだ。

それは、後半部分の強制収容所での場面でも見受けられる。

ナチスはドイツ人であって、イタリア人じゃナイ。そんなにスカタンではナイ」
という印象ばかり。
ベニーニの解釈による、ドイツ人は
「まるでゲルマン人の皮をかぶったラテン人」である。
「人類皆兄弟」とでも言うつもりなのだろうか?まさか?
そーゆー映画じゃナイだろう。

確かに、現在のハリウッドを支えているのはユダヤの人たちである。
だから、ユダヤ人擁護の映画は間違いなく賞を取れるし、ヒットもする。
しかし、この映画に本気で感動している人たちが多数いるらしいというのは、
とても危険な事でもある気がする。

第一、搬送列車のシーン一つとっても、現実とは違うし、
収容所の様子だって、あんなでは無い。

「映画的なウソ」と言うことなのだろうが、
「言って良いウソと悪いウソ」の区別もつかんのか。

後生の人たちの歴史認識を雲らせて、
しかも、こんな作り手自身のファシズムの匂いがプンプンの映画が
「名作」として残るのは、大間違いである。

こんな調子では、次のファシズムも無邪気な顔して、
楽しげに近づいてくるのかもしれない。
多分、ロベルト・ベニーニの顔で。