山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

万日山の思い出

ひょんな事から人様に教えて頂きまして。
澤木興道老師のご本に興味津々なワシであります(まだ入り口ですけど、老師の魅力はビンビン伝わるですよ)

で、先のリンク先を読んでいたら、興道老師、我がふるさとの熊本にも縁が深い方だったんですね。
熊本の五高(旧制第五高等学校)で坐禅の授業を行なっていらしたらしいし。
と。いうことは。
ワシが高校で習ってた先生の中にも老師から教えを受けた人も居たのかも??と一瞬思いましたが。
老師が五高で教えていたのは大正15年。

…無理か(^_^;)

で、老師の熊本での足あとが残っているのは、五高の他、大慈寺
そして万日山。

「あれー?あの、万日山?」
ワシはココのことをよく知っているのです。

親戚が旧国鉄職員で(蒸気機関車が好き過ぎて国鉄職員になったという筋金入りの鉄ヲタ
昭和30〜40年代頃、熊本駅の西側裏手に国鉄職員のための官舎があったんですよ。
で、その親戚の家に遊びに行くと、従姉妹と連れ立って万日山に登りに行く。

二人でじゃんけんをしながら石段を延々昇り降りして、最後は春日小学校の遊具で遊んで帰る_というコースで。
たまに、近所の駄菓子屋でおでんを食べて帰るという(冬場になると店のタタキの真ん中にストーブが置かれて、おでんが煮えていた)ゴールデンコース。

当時は自分が住んでいた場所(熊本市内の東側)とは全然違う官舎に住んでいる人々の風俗とかが面白くて(電話は壁掛け式の共有黒電話で、電話がかかってきたら近所の人を「●●さ〜〜ん、電話よー」と呼びに行くシステムとか)
「こういう暮らし方もあるのかー」と観察しておりました(当時のワシは幼稚園〜小学校低学年)

当時のワシは祖母が所有してた借家に親子三人で暮らしておりまして。
家の前の道を渡ったところに通ってた幼稚園が有り。
近所に商店街があって。
周りの人達も借家住まいのつましい典型的な昭和の暮らし方をしているような場所でした。

で。この万日山で驚愕の風景を目にするわけですよ。

ある時、従姉妹(当時10歳くらい)に連れられて「小学校の友達の友達」とかいう子の家に遊びに行ったら。
なんと畳敷きの上に靴で上がって暮らしている一家の家
でして。当時、6〜7歳だったワシは驚愕のあまり「あんぐり」と口があいてしまいました。

畳の上に砂がザラザラと積もっておりまして。
強烈な汚家で。
奥(って言っても二間ぐらいしか無い長屋の一室で凄く狭い家なんですが)からその家のお母さんが出てきて、
「どうぞ、靴のまま上がって」
て言われたんですけど、すごく「靴のまま畳に上がる」という行為に凄く抵抗感があって、上がれなかったんですね。

おとなになってTVを見てたらカンサンジュこと永野鉄男が「ふるさとを訪ねて」みたいな番組に出てて。
それがまさに、万日山の近所でありまして。
「あ。あれは朝鮮人部落だったんだ!」
と数十年後に理解したわけであります。