山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

ダンナ、まだまだ寝込みチュウ

昨日、本屋で買ってきた「CUT」最新号を読んでいたら、キャメロン・クロウアメリカの映画監督・最新作「あの頃、ペニー・レインと」が間もなく公開予定・ワシはこの人を「青春映画の巨匠」と勝手に呼んでいる)のインタビューがあった。
そこに、こんな言葉が載っていた。

「ボクは素晴らしい物を正しく誉めることこそ、ソレに対する最大の敬意だと思っているから」
思わず、クロウ監督の言葉に感動。
「う??ん!そうだよ、その通りなんだよなあ!!」激しく頷きながら読む。

実は某掲示板に置いて、「ものすごく頭の悪い議論はマダマダ続行中」である。
もう、読んでいると目眩がしてくる。
「烏合の衆」とはマサニ、コレである。
的はずれの議論、とんちんかんな解釈の嵐。

自分が正しいと感じればソレでイイじゃん。
なんで、ヒトの意見をそんなに気にする?
「馬鹿だねーコイツ、全然分かってないよ。けっけっけ。ワシは十分に感動したからイイモンねー」で、オワリ。だけじゃダメなのか?
「自分が、イイ。素晴らしいと感じたモノ(映画でも音楽でもアートでも文学でも)に対して、ハッキリと、何処がどう素晴らしいのか大きな声で言う」コレはワシのモットーでもある。
(勿論その数倍は「ツマラナイと思ったモノ、クダラナイと思ったモノ」に対して文句も垂れているガ)
それは「ファン」として最低の礼儀ではないのか?
「ヒトではなく、自分」コレが大事。
「本当に感動し、本当に心を振るわせているのなら、ヒトの意見なんて、ドーだってイイ筈」であるもの。
ワシが欲しいのは「本当の感動」「本当の手応え」
ココでこんな事書いているのも、実は「自分の感覚のダンベル体操」代わりという部分もあるし(思わぬ告白)

そうそう、映画「ダンサー・インザ・ダーク」だって、何処が凄いのかというと、監督の野心も思惑も手法(悪名高いドグマ95)も突き抜けて、ビョークという「突出した希有な存在が(映画の)虚構をうち破った」点にある。
強引なストーリィ展開。「コマ」として動かそうとする監督の暗躍(?)も振り払い、ビョークはこの物語を「輝かしい希望の物語」へと窯変させていった。そこが、本当に凄い!のだ。

物語の枠に入れようとする監督VS映画の本質そのものを変えようとする女優。
う??ん。現場は相当モメタらしいが、モメタ結果、イイモノが出来たのならイイじゃん?(爆)
やはり、ビョークは映画史に残るぜ。