山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

若い人のためのエレファントカシマシ案内 2

阪神・淡路大震災が起きたのは、1995年1月のことでした。
その一年後、友人に招かれて神戸を訪れたのが1996年1月。
変わってしまった風景に、失われてしまった、もう二度と再び帰ってこない様々なモノに胸を裂かれる思いを味わって帰宅して。そこに飛び込んできたのがこの歌「悲しみの果て」でした。

「この悲しみの先には何があるんだろう?」
「もう二度と会えない人たちがいる、失ってしまった帰っては来ないものが色々とある」
と絶望的な気持ちになって、実は泣き暮らしていたのです。
その気持ちにこの歌が、「すっ」と寄り添ったんですね。
「もう希望なんか見えない」と泣いていたのに、「この悲しみの先にはまだ見えないけど、希望が見える日が来るのかもしれない」と教えられた気になったんですね。

「変わったなあ、ミヤジ」
と、思ったのですが、今になって考えてみれば、その後の更なるミヤジ事、宮本浩次の変貌ブリたるや・・・もう・・・(--;
当時のワシに教えてあげたい気分ですよ!
「おいおい、こんなモンじゃないぞ、ミヤジの変わり様は!?」ってね。
「この後、トンデモナイ事態にまで至るぞ!!」ともね。

でも、当時は感動しましたねえ。
「あんな中2病の権化みたいなヒトが、自分の気持ちと向き合っている!?」とね。
「いやー、大人になったなあ、表現者として一皮むけたねえ」とね。

そしてその年の夏、エレファントカシマシはレコード会社を移籍して初となる新作アルバム、大傑作「ココロに花を」をリリースします。
まさにこの瞬間が「エレカシエレカシであった時代」です(ワシの偏見&思いこみ)

Epic Sony時代の歪んだ___正直言って、「アタマがちょっとアレ」な世界から随分とリハビリして、音楽をやっているちゃんとしたバンドっぽい雰囲気にシフトした瞬間ですね。

しかし、この時代錯誤的な「アタマがアレ」な感じもちゃんとまだ残っていまして、そして同時に「音楽をやっているバンド」としての佇まいも持っているという__この二つの味わいの混ざり具合が本当に絶妙のブレンドで。
この瞬間のエレカシがワシの中では、「本当のエレカシ」なんですね。

「星の砂」「デーデ」「ファイティングマン」等、初期衝動の頃の「あの」素晴らしさの面影を残したままで、ちゃんとロックバンドになって見せた。
そこに感動したんですよ。