山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

初号機誕生のいきさつ 1

1990年夏。
夫の母にガンが見つかり余命宣告を受ける(2年生存率は15%)
一瞬だけ考えて。「果たしてワシは姑に何が出来る?」と自問して。
「この世の最後に孫を見せよう」と思いつく。コレまでの間、数分間。

当時住んでいた西新のマンションから歩いていける総合病院にすぐ出かけて行き、不妊治療を始める。
具体的に不妊治療とは何をすることなのか?もよく知らないまま通院を始めて。
当時はオランダから輸入されたホルモン剤のヒュメゴンを筋肉注射して排卵を誘発するという方法が取られておりましたが。
このヒュメゴンが「痛い」んですね。
キンキンに冷やした薬剤を筋肉注射すると激痛で顔が歪み、打った後もぐったりとしてしまって午後には何もできなくなります。

結構副作用のキビシイ薬でして。
具合が悪くなるのがデフォルト。注射の跡も腫れるし、鉛を打たれたみたいにズーンと重くなり確実に具合が悪くなります。

でも「残り二年」と告げられれば。妊娠期間は9ヶ月あるわけでして。
「今すぐに妊娠してもギリギリか」と切羽詰まった気持ちだった事を思い出します。
それも「二年持てば」という条件です。
もしもガンの進行が思ったより早くて、姑の命をあと1年半とかで奪ってしまうとしたら?

とにかく一日も早く妊娠して、無事に出産して姑に孫を見せる事が第一目的なので四の五の言ってはいられないのです。
長年苦労して、夫とその弟を育て、やっと今、生活が楽になりかけているというのに、人生が閉じられようとしている。
その苦労は無駄じゃなかった。
お義母さん、あなたがなさった事は立派なことなんですよ。と告げたかったその一心で。
頑張って治療を続け(当時でも「不妊治療に30歳になろうかというのに来るとか遅い!もっと早く来なさい」と怒られていた)
1990年秋 妊娠に成功。

コレが後の初号機となるわけです。