山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

ソロの不入りの意味

皆様に恐ろしいお知らせが…
昨日の松山公演…お客さんが極端に少なかったみたいですね…
昨日、このブログがですね、なんの間違いかお客さんがのべ800人ほどいらっしゃったのですが…
こんなブログ読んでないで、さわおソロ見に行ってやってよー(´д⊂)

…失礼、大きなお世話でしたわね。

が、しかし。
今回の客の不入りを単にピロウズとのネームバリューの差とか、昔の曲を演奏するピロウズが素晴らしいからだとか全然考えてないですワシ。

ピロウズの凄さは。
昨日もココに書いたけど、「音楽の神様を地上に下ろしてくる」という部分です。
巫女の山中さわおがトランス状態になり、自分が作った音楽を爆発させるときに、その呼吸に呼応したメンバーがその力を増幅させる。
空気を震わせる、一人ひとりの心の奥底にあるものにプラグが刺さってくる。
そのマジックが…

つまりお客さんが何に期待しているか?
というのはワシには想像することしか出来ませんが、少なくともワシは。
ピロウズに期待している」んですよね。

いつも何かしら新しい音がする。
新しい表現がある。
それを生で体験するという事は「とても特別で大事なこと」
ソレを求めているんですよね。

なので、今回の不入りに理由があるとするならばソレは。
「平日の早い開演時間」にだけ理由があるとは思っていません。

実はソロを何度か聞いているうちになんともモヤモヤした気持ちになってしまって。
一時期、全然聞いてなかったのですが。
つまりソレは「音楽の魔法を期待できない」からだったんですね。
今までやったことの繰り返し、焼き直し。
多分、ソレはワシが一番聞きたくないものだったからなんですよ。
いくら「コレはピロウズと同じ!」とさわお自身が主張してても、ワシの耳にはそう聞こえませんでした。
むしろセルフパロディのようにしか聞こえなくて。なんともモヤモヤしたものです。

何故、新しい音、新しい表現にならないのか?過去の繰り返しになってしまうのか?全然別物なのに「同じですよ!」と差し出されることへの不快感(単純に)
それはあの二人が居ないからなんですよね…
この悲しみ。
この不在感、欠落感…
ピロウズのあの、自由で気ままな感じ。
音の海で泳ぎまわって喜んではしゃいで。音で幸せになる「あの感じ」が無いという事の意味。

それを生で聞いて…自分の気持ちがどうなるのか?怒るのか、悲しくなるのか。いやいや、それでもなお、さわおの音楽に感動させられるのか??
それが全然わからなかったんで、あえてソロに出かけてみたわけですよ。

うん。
怒りはなかったです。悲しみもなかった。
ただ、「なるほど、サポートメンバーだけだと魔法はやっぱり起こらないんだな」という確信を得て。
そして同時に、「やっぱりこのひとは才能があるんだなあ」というコトを純粋に感じたのでした。
当然、音楽にその身を捧げているという覚悟もね。

でもやっぱり。
山中さわおが本当に輝いて。
常に新しいことをやり続けて、人の心を打ち続けるのには、あの二人が絶対必要なのだと。
せっかく「トライアル」で新しい表現が(それも禁じ手と思われていた「泣きのギター」)生まれたのだから。
もう今さら、ピロウズには禁じ手が存在しないのだから。

前よりも一層自由になって居るはず。
次回作に超期待てバスターズはワシだけじゃないと思うですよ…
この際「破壊的イノベーション」で破壊されたものって本当は何よ?という意味を考えると残酷ですが、ちょっと面白いですね←不謹慎