山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

老師の門を叩くワシ「澤木興道聞き書き」

ネッ友さんに紹介されて読み始めた澤木興道シリーズ3冊め(コレは自分で購入した)
「明治生まれの禅僧のおじいさんでなんだか型破りな人」
という漠然としたイメージで読み始めたこのシリーズ。

お弟子さん(酒井得元)に話した話の断片をつないで一つの一代記(?)のように仕上げたこの「聞き書き」こそ、興道老師の人となりがとてもよく伝わるものだと感じましたね。
ところどころにお弟子さんの「老師すごいッス」補正が加わっているせいか?なんかコレ、もしも老師本人がこの調子で語っていたとしたらなんだか自慢たらしいトーンを感じるんですけど…
書いたお弟子さんも新聞連載中にその事は読者に指摘されて(クレーム入れた読者は老師本人が書いていると勘違いした模様だが)その補正を手直したはずなのに。
それでもにじみ出るお弟子さんの「老師、かっこいいッス」感…(^_^;)好きなのはわかったから…

まあまあ。
その部分は「師弟愛」と思って片目をつぶってスルーしつつ、読み進んでいくと。
なんとまあ、この快男児の冒険小説のような趣をもった一代記であることか。

早くに両親をなくし、兄弟は散り散りに。
自分は花街の博打打ちの家(養母は元娼婦w)に貰われてこき使われ。養父母を養うために家畜のような生活環境に置かれるわけですが少年時代の老師はそんな事では負けません。
この圧倒的な「生きる力」(胆力?)

花街の娘ぐらいの年齢の娼妓の上で腹上死しちゃう近所のおっさんとかヤクザの出入りの抗争とか。
ヒドイ環境の中で育っても少年(後の老師)は、「この世には美しい清いものがある」という事に気がつくんですね。
そして自分の知らない世界を追求してみたいと僧侶になりたくて家出をします(二度目にして成功)

それでもすんなり僧侶になれるわけもなく。
小学校しか出てない、後ろ盾もない少年がいかにして禅僧として後に「老師」と呼ばれる存在になったのか?
その理由がなんとなく伝わる老師の人間像がなんと魅力的なことかw

まるで冒険小説の主人公のような。
ハックルベリー・フィンみたいに冒険の旅に出て。ブルース・リーのように修行して。日露戦争では従軍してエイハブ船長かキルゴア中佐のように戦います。

「なんと言うか…明治の人って凄すぎ…」
というのが正直な感想ですが。
人間力が高いというか、カリスマ性がありすぎると言うか。

老師の凄いところはそれでも全然偉ぶってないで。時々妙にお茶目でチャーミングですらあるんですね。
ユーモアを漂わせて誰にでも等しく対し(学生だろうと上流階級あがりの尼さんだろうと)、家も持たず妻も娶らず、ただ坐禅し続けることで「ただ座る」事を実践し続けることで老師は老師になっていくんですね。
老師の生き方がとても素敵で惹きつけられます。
どんな風に生きて来たのか。
それだけでこれだけの説得力があるというのもすごい話です。


最後に興道老師の素敵お写真でもどぞー