山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

ワシの運命論

というわけで。
今年は自分の人生を見直す日々でしたな。
考えこむことも多くて。悩んだり、苦しんだり、恐れたりしたものです。
でも、今はね。
運命なんて人生なんて、なるようにしかならないじゃない
と思うようになりました。

きっと多分。
運命なんてものは実はもうすでに一つの大きな流れとしてできていて。
その流れに逆らおうと、自分の力でコントロールしようと。ねじ曲げて凹ませて、叩いて自分の思うように修正しようとしたところで。
そんな小手先の事で決定的に何かが変えられるだなんて思い上がりも甚だしい気がします。
最近は、よくそう思うようになりました。

勿論。「自分がこうしたい」と願う、努力する気持ちは大切ですが。
流されるだけというか。
自分の力でどうにもならないことがあったなら、もうソレに従って生きてみるのも、自分が生き残るための一つの手段だなと思います。

例えば。
誰かを好きになるって事なんか。自分じゃコントロールできませんよね。
「あ。この人は好きになってはイケナイ人だわ」
なんて思った時点でもうとっくに好きになっている。

その人の言葉の一つ一つが胸に刺さって抜けないのなら。
その人の仕草の一つ一つが面影が網膜に焼き付いて離れないのなら。
もう、恋は始まっているんです。片恋でもね。

勿論、人間には理性があって。
「こんなハズじゃない」「こんなつもりじゃない」
と思って変えようとしますが。
…あんまり意味は無いですね。

そうなってしまったら変えようがないんですよ。

ところが、人間は一人で生きているわけではないので。外的な要因も加わってきます。
誰かがアナタを搾取して、利用し、思うようにコントロールしようとしてきたところで、そんなもの何年かはその術中に落ちて。
それらしく収まってしまう日々もあるでしょうけど。

でもやっぱり人間は一人で生きているわけではないので(しつこいw)
他の人との関わりの中で「目が覚める」ってこともあるんですよね。
「あ。今まで何をやってたんだ!?ワタシはただの可愛いドレイちゃんだったって事か!」
とね。

そうなったら、自分の運命が、実はねじ曲げられていたことに気がついてしまいます。
そしてその誰かの手によって曲げられた運命は、自分の力で本来の姿を取り戻そうとしていることもね。
ねじ曲げられたものはまっすぐに。
大穴が開けられたものは、まるで傷口を塞ぐかのように内側から盛り上がってきて、その穴を修復してゆきます。

それらを眺めながらワシが感じることは、
「なるほど、なるようにしかならないものだな」
という事実です。

これを諦念ととるか、希望ととるか。
さて、みなさんならどう受け取りますか?