山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

「ゲド戦記」を見る その2

とまあ、映画そのものよりも、その向こう側に透けて見える宮崎吾朗という人の、ひととなりや生育歴みたいなものが強烈に面白くて、ワシはついつい引き込まれて観ちゃいましたね、「ゲド戦記

大体ワシはツマラン映画だったりすると、「えーいまだるっこしい!早送りの刑じゃー!!」だーーーーっと、早送りしてしまって__どうかしたら二倍速4倍速で見ちゃう事もあるんですがw
この「ゲド戦記」は思わず通常のスピードでじっくり最後迄見ちゃいましたね。
だって、殆どコレは「宮崎吾朗のウチなるものの告白」ですよ、全編に渡って。
「こんなに正直に自分の内面をさらけ出す映画監督ってイマドキ希有だわー」と思わず感心しましたよ、最後には。

普通だったらこっぱずかしくって、「こんなつまんな卑小な自分自身を全世界に向けてさらけ出すぐらいなら、死んだ方がまし!」って思うと思うんですよ、通常の価値観や神経の持ち主だったらね。

でもゴローちゃん監督は違います。
「もう、こんなオレでも文句があると言うならかかってこいや!なんなら原作者だって親父だって刺し違えてやるぜ!!」
みたいな無茶苦茶な破壊衝動でこの映画の全編は太く貫かれ、もう観客とか、プロデューサーとか、映画会社とか、原作者とか、なんもかんも全部「置き去り」ですよw

ま、考えように寄っちゃ、パンク?
すげえ外道なやり口ですがね。

でも、ここをワシは「面白いなあ」と感じたですよ。
ここまでして何もかも全部否定して泥を塗ってやりたいという彼の衝動。
彼をここまでこうさせているものは一体、何なんでしょうね?

詳しくは知らないのですが、確かこの宮崎吾朗 という人は30歳過ぎた立派な成人だった筈(と記憶している。もう調べるのもマンドクサイので、各自、目の前の四角い箱で以下同文)なのですが。
この映画から感じられる、まるで「飢えた子供が、愛が欲しい愛が欲しい」と叫びながら手足をばたつかせて床の上で転げ回っているような印象なのは何故でしょうか?

これだけの立派な原作を与えられ、素晴らしい世界最高峰のスタッフを、その王国を父親からそっくり与えられて。
彼の映画監督としての未来は、「完全に約束されたもの」として輝かしくそこにあった筈なのに。
何故彼は、それら全てのものを道連れにして心中しなければならなかったのでしょうか?

明日も続くのかこの話題?