山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

バンドはファンを選べない 3

今回のBS-2を見てて思い出したのは、「痛恨の記録映像」=エレファントカシマシが武道館で演奏した記録「コンサート1998日本武道館 “風に吹かれて“」ですね。
これも「演奏している側」と「見ている側」の意思疎通というか、熱い関係が微塵もない映像で。
見てて薄ら寒くなるやら情けなくなるやら。

ちなみにワシの書いた「コンサート1998日本武道館 “風に吹かれて“」のレビューは以下↓

不完全燃焼な、くすぶり続ける男ミヤジ。その喜びの無い絶唱を見続ける事の悲しさ。

8年ぶりに再見。
これはなんと言ってもまず、会場が悪い。エレカシに武道館は似合わない。

「なんでこんなツマラナイ演奏内容になってしまったのか?」と変わり果てたミヤジの姿に思わず涙がこぼれる。

売れる事と引き換えになにか大切なものを、仮想敵を無くしてしまって、迷走するエレカシ
スタイリッシュにエネルギッシュにこなそうとするステージは何故か空回りして、観客とパフォーマーの間に果てしない深刻な亀裂が存在するだけ。

喜びの無い音楽。
敵を見失ったミヤジの迷走。
観客の熱狂は遠く、走り回るミヤジの姿は悲しい。
ココにはパフォーマーと観客の間に本来あるはずの幸せな音楽の魔法の瞬間は訪れない。

ここに残された映像は、音楽を武器としてしか使ってこなかったミヤジが、音楽に裏切られる瞬間、そのものである。
ミヤジの前にいる人たちはミヤジの敵ではないのに、何故、その事に気がつかない?

少なくともこの武道館の一年前のライヴでは、「敵であると思いながらも、観客に対して何かを伝えようと必死で手を伸ばすミヤジの姿」が見受けられた筈なのに。

この武道館に居るのは「ミヤジに似た他の誰か」でしかない。
そこが悲しい。
何かを割り切って、何かを捨てて、何かを諦めて、何か別のものを欲しがっている男ミヤジ、痛恨の証拠映像である。

「もっと純粋に音楽に喜びを見出せばいいのに」と今更ながら思う。

----------------コピペ終了

しかし、今回、BS-2の映像を見る限りでは、「実はミヤジは全然変わってない」って事なんですよ、昔も今も。
会場が大きくなると、つい演奏の精度を上げたくなる悪い癖。
「実は自分の音楽を信じきっていない」という恐ろしい事実。
そしてその結果がコレだ→「観客席の総奴隷天国化現象」