山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

音楽が引き起こす魔法の一瞬をいつも待ち焦がれている

公式サイトのフォーラムで暴れていたヒトたちってのは、本当にファンなんだろうか?
そもそも最初のカキコミに関してはどうも「釣り臭い」気がするぞ。

さてココでワシが考えた事は以下↓

・公式サイトのフォーラムで暴れている(自称)ファンってのはもしかしたら、ありのままの「今のさわお」を受け入れられない人なのではないか?
自分が変わらないから(こそ)、さわおにも変わって欲しくない__とか?

・「全てが変わっても、僕は変わらない」とさわおがかつて歌ったのに、アイドルに曲を提供したって事=さわおが「変わっちゃった」=「魂を売った」って事になる__という理屈によるものなのか?

・時代とともにバンドや個人を取り巻く状況も変わってくれば、気持ちだって変わる筈。
純粋にコンポーザーとして売れているアイドルから作曲依頼を受ければ嬉しいのではないか?
人間的な芯の部分で変わらないモノがあったとしても、やっぱり時代とともに生きている訳だから。変わる部分もちゃんとあるという気がする。

・それは「悲しい歌は唄わないぜ」と言いながらもやっぱり「誰も来ない町で猫と暮らしたい」とか歌っちゃう。
そこに如実に顕れていると思う。

・「変わった部分」もあれば、「変わらない部分」もある。
それを如何にも全く変わらないように歌っている本人が取り繕うような事があるとしたら、それは恐らく誠実ではない物=「嘘」になるのではないか。

・そもそも音楽というのは理性では制御出来ない部分があるのではないか。

・自分の心に素直に、ひたすらに自分がやるべき事に気持ちを集中させていても、人間だから日によって気分は変わるし精神状態も変わる。
それをニュートラルに保って、一定の気分で、どこででも一定の演奏をしようなんて__それって音楽に対してとてもある意味、おこがましい不遜な態度なんではないか。
(↑昨日立ち読みした田渕ひさ子のコラムの受け売り)

怒っている気分の時は怒っている気分で。
楽しい気分の時は楽しいままで。
自分の魂の命ずるままに音を出す。
だからこそ、観客にその自分の音楽そのものが届く&音楽の魔法が起きる一瞬が訪れる__という事があるんじゃないのか?

暴れている嵐のカキコミを見ながらそんな事を考えた。