山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

「愛されなかった自分」を越える「他者を愛する自分」

A.I.」であるが、ワシは「この幼稚さには、やりきれんモノがある」くらいにしか考えなかったが、ダンナは「全然オッケー」らしい。
「君もそんなにココロが寂しいコちゃんなのカ!?」
ワシ、思わず大声でダンナに訊く。
「幼稚なのはスピルバーグの本性だから」と、ダンナ。

「でも、アレのどこにキューブリックが?設定の所々に見受けられる以外には、コレといってキューブリック色はなかったような・・・」と考える、ワシ。
あ、ワカッタ。
映画が売れれば、「唯一のキューブリック製商業的成功作品」となって、「歴史に残る」ってワケか。
「商業的成功」はキューブリックが欲しくて欲しくてたまらなかった(らしい)称号の一つだもんね。
「商業的成功が欲しいキューブリック」と「哲学が欲しいスピルバーグ
両者が組む事は、「お互いにとって損はない」って事か?
(映画の内容が幼稚な割には)「大人な判断」じゃん。

「A.I.」の世界観&ヒューマニティは「かなり、歪んでいる」と言わざるを得ない。
その歪みはきっと「この映画の監督たちの歪み」に他ならないのだろうが、それを無自覚なままに映画にして見せたところが、かなりグロテスクと言わざるを得ない。
本人たちは無自覚なままに、「ワシらは筋金入りの変態」と告白しているようなモノだ。

だって、自分の最大の理解者が●●人だなんて!百歩譲っても「良識を疑う」ぞ。
ホントに本気でそー思っているのか?>スピルバーグ
って言うか、●●人に感心されて誉められたいのか?それが最終目標か?地球はもう、征服したからか?

そんなにママに愛されなかったのが傷になっているか?親に認められなかったのが死ぬまで辛かったのか?>キューブリック
キューブリック母も「愛されたいバッカで愛することをしないヒト」多分)

そんなことがしみじみと伺える映画>「A.I.
なんか、この肥大した「愛されたい自分」というのに既視感があって、記憶をかき分けたら、「おぉ、エヴァンゲリオンってこーいう内容」と思い出した。

ネット上でもよく見かける。
「愛されたい」「注目されたい」「尊敬されたい」「大事にされたい」「有名になりたい」と一日中大声で叫んでいるようなヒト。
こーいうヒトってどこまで行ってもいつまでも孤独なんだけどね。
誰も愛さないヒトは結局、孤独の無限地獄をさまようモノ。

「愛されるより愛したい」ワシ。どっちかぁーってぇーと。