山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

「ダンサー・インザ・ダーク」を観る

先ず、言っておきたいのはビデオ・クリップとしてはスパイク・ジョーンズ監督の「オー・ソー・クワイエット」(コレがこの映画の元ネタ)の方が上等でダイナミック。
しかし、ストーリィは「奇跡の海」(ラース・フォン・トリアー監督の前作)より上等である。

_ネタバレ注意!映画を観る予定の方は読まない方がいいのカモ_

最初に話を聞いたときは全然納得できない物語だと思った。
息子を残して死んで平気な母親なんかイナイと思ったから。
でも、この物語を観るにつれて、強引な語り口調ではあったが納得させられた。

ここまで追いつめられてしまったら、子供には「前科者の母親」なんか要らない(冷たいようだが、ワシはそー思う)
よしんば再審で無罪になったところで、殺人の事実は消えないし、息子の手術にも間に合わないのだとしたら。
自分は見るべきモノは全て見た(息子はまだ見ていない)
親は無くとも子は育つ。
息子の目が治り、彼の未来が開けることと、盲目の親子で前科者の母として彼の人生の重荷になるのだったら、どちらを選ぶ?
・・・等の状況だったら、自分が先に行くことになるのを決心するのは自然な感情ではナイか?
多分、ワシがセルマ(主人公)でも同じコトをするだろう。

勿論別れは辛いワケで。死刑は怖いワケで。

しかし、ソコで奇跡のように歌を歌い出すセルマに感動した。
自身の人生が過酷になればなるほど、彼女の妄想のミュージカル・シーンは輝きを増す。
彼女の生きる糧としてのミュージカルの引用はそのまま、もしかしたら音楽の世界に生きなかった場合のビョーク自身の「ありえるもう一つの架空の姿」そのものである。
ツライ人生を生き延びるため、その日一日をしのぐため、こんな夢を見るヒトも居るだろうと妙な説得力を持ったシーンだと思った。
ミュージカルのリアルな活用法はコレしかない。現在において。

この映画において「ハッピーエンド」「アン・ハッピーエンド」の議論は馬鹿馬鹿しい。
アメリカン・ビューティー」の時もそうだったけど、ナンでそんなコトを気にするのだろう?

キネマ旬報に至っては「遺伝性の病気があるのに子供を産んだセルマは自分勝手」という批評が載ってて目眩がした。ワシ。

子供は未来に生きるモノ。
過去の人間(親)がその将来を遮ったりしてはイケナイのだ。
産むのは生への渇望に他ならず、子供は「永遠」へと繋がる。
子供は親の所有物ではナイ。