山麓日記帳

全ては消えゆく、雨の中の涙のように

ビューティフルライフ最終回♪

ビューティフルライフ」最終回。夫婦でティッシュ抱えて観る。
なんか、もう。ダンナの母がガンで亡くなった時のこと思い出して、ボロボロ。泣き濡れる私たち。あれからもう、8年も経つのに。

40過ぎで夫と子を残し、脳腫瘍で死ななければならなかった友人の友人とか、
急性の白血病で若くして亡くなった叔母とか、色々思い出して辛い。
でも、母を送ったときもそうだったけど、力一杯なすべき事をなせば、死に別れるときも不思議と涙は出ないのよね。
むしろ、「痛みから解放されたね。よかったね。」と言っちゃうくらいなんだよねえ。
しみじみと悲しいけれど、晴れ晴れとした空虚な寂しさはあるけれど、
欠落感はあるけれど、「力一杯やったから、後悔は無いわ。」という妙な達成感で満たされちゃって、
葬式でおいおい泣いてる人みると「生きてるうちに力一杯関わってないから、
優しくしてないから泣く羽目になる。バカ。」とか思っちゃって。
病気で、お別れが来るって覚悟しててホントにお別れが来た時ってこんなんです。

宣告から死までの長い時間がお別れを言うための、後悔しないお別れのための大切なレッスン期間。
上の娘を生んだのも、ほとんどこの母の為。だった。
「母の人生を救いたい」と出産したのだが、結果、娘は私自身の人生を救ったのだ。子供を持ってないヒトには分かりづらいと思うが、子供というのは実は親の魂を救済するのだ。
子供を持つというのは、実は自分の魂の問題である。
なんて思いも寄らなかったし、気が付いたときにはビックリした。
子供を持つのは生への渇望。自分の手の届かない未来への贈り物。
そこにいるだけで、ココロを慰め励ましてくれるのだ。
だから、娘には「もう、あなたがそこにいるだけで有り難いわ。生きてくれてるだけでお母さんはしあわせだわ。」といつも言ってる。
娘自身はよそのお母さんみたいに「●●みたいになって。」とか、「こーいう大人になって。」とか私が言わないのが不満らしい。
(「なにをやろうと君の自由だ!何になろうと君のなりたいモノになれ。条件付きでなら、殺人も売春も赦そう!」って言う私も私だが。)

そう、そう。私のヘアカットをしてる美容師さんも「BL」のキムタクのように、愛する人と別れ、一人で犬を相棒に店を切り盛りしてる中年男性だが、現実では保健所がやってきて、「美容室の中に犬を入れないように」と指導されちゃうのだった。たっはあー。